インターネットとメディアの変化

■インターネットの登場
1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災は、インターネットの潜在的能力を示す機会となった。
地震発生直後から安否確認、緊急通信、受話器はずれ等により通話量が急増したため、通信インフラとしての電話回線が輻そうし、つながりにくくなる中、インターネットが被災地からの情報発信ルートを継続的に確保していたのである。
平成23年版の通信白書は、「阪神・淡路大震災では、地元の大学や企業をはじめ、多数の大学・研究機関や企業がインターネットを通じて、被災地の画像、安否情報、地震に関する学術情報等を世界に発信した。神戸市はインターネットを利用して、焼失地域の地図、避難所一覧、静止画像による被災地の状況等の情報を発信した」と総括している。
神戸市の職員が、被害の様子をデジタルカメラで撮り続け、 それをインターネットで世界に送り続けたことはよく知られている。
1993年に商用サービスが始まったばかりのインターネットはソ連の核攻撃にあっても通信手段を確保するためにアメリカの国防総省が研究を開始したアーパネットに源流をもつが、核攻撃にも比すべき大震災の広範な被害の中、インターネットは威力を発揮し、一般にもその存在が知られる契機となった。
1995年の11月には、マイクロソフトがウィンドウズ95を発売。
アイコンやリンクをクリックすることで、感覚的にパソコンを操作できる容易さにより、パソコンユーザー、インターネットユーザーは一挙に増加し始めることとなった。1995年はインターネット元年と目されることになる。
当時の通信スピードは今日とは比べ物にならないほど遅く、通信料金も従量制でそれなりの費用を要したことから、個人ユーザーは一部に限られていたが、大企業を中心にインターネット活用は徐々に浸透していった。トヨタはこの年の8月には当時日本で最大といわれたサイトをオープンする。
この時期のトピックスとして、触れておきたいのが富士写真フイルムのケースである。ロサンゼルスオリンピックで公式スポンサーとなった同社はこれを契機に売り上げを伸ばし、1995年時点ではアメリカでの写真フィルムシェアが3割に達していた。一方、競合である米イーストマン・コダックの日本でのシェアも3割だったが、同社としては世界的水準に遠く及ばない数字だった。これは、日本の流通市場が閉鎖的なためであるとして、コダックは米国通商代表部に提訴し、日米経済摩擦の争点に浮上した。富士写真フイルムは直ちに反論をまとめ米国通商代表部に提出するとともに、1995年7月、600ページにのぼる反論書を「歴史の改ざん」と題し、インターネットで公開した。その効果は抜群で、WTOのパネルの最終報告でその主張が認められ決着した。インターネットがグローバルなコミュニケーションツールであることをまざまざと見せつけたケースだった。
経済広報センターの意識実態調査を見ると、1996年時点でウェブサイトを開設している企業は36%、開設予定企業は41%に上っている。1999年には95%の企業でウェブサイトが開設されている。さしずめ「ウェブサイトの開設ラッシュ」とでもいうべき状況であった。
この潮流の中で社員にパソコンを貸与する企業が増え始め、パソコンはビジネスツールの主役へと躍り出た。
また、この年にスタートしたNTTのiモードが携帯電話からのインターネットアクセスを可能にしたこともあり、インターネットは一般ユーザーにとっても身近な存在となった。ちなみに日本のハンディ型携帯電話は1987年に登場しているが、1995年から2000年にかけては毎年1000万回線のペースで急速な成長を遂げており、携帯電話がインターネットを日常的な存在に変えた。
この波に乗り1999年と2000年の両年にはネットバブルと呼ばれるブームが訪れた。1997年4月の橋本内閣による消費税増税、同年7月のタイに始まるアジア通貨危機のあおりを受け不況にあえぐ日本経済の中でインターネット関連産業のみがひとり気を吐いていたのである。

■インターネットと企業文化
インターネットの普及は広報のあり方に大きな変化をもたらした。情報の対外受発信にインターネットを使うだけでなく、社内コミュニケーションの風景も一変した。電子メールや社内限定のイントラネットを通じ、社内の情報共有のありかたは替わり、稟議制度に代表される階層を経由する意思決定が陳腐なものとなりはじめていた。
シティバンクのCEOだったジョン・リードは、早くから全社員向けのメールを活用していた。「トップが社員に直接、意志を伝える簡便な方法があるのに、なぜ上司を介して伝えなければならないのか」という素朴な発想から出発したものだ。
メールやイントラネットを介したトップからのメッセージは多くの企業で取り入れられることになる。
2004年ごろからブログが一般化すると、IT企業を中心に社長ブログが増え始める。もとより、社長ブログは対外的な情報発信を一義的な目的としているが、社員はこれを通じて社の経営方針や企業理念を理解することも多く、社内コミュニケーションの重要メディアとしての側面も色濃い。
逆に社員が社長あてにメールを送付する試みもはじまった。三菱電機は1995年4月の段階で「社長メール談話室」を設置し、部課長が社長に経営方針を直訴できるようにした。同社は1994年を電子メール元年と位置づけ、3億円を投じて社内の情報化を推進した中での試みだ。また、三菱商事は「サンキュー・フォー・ユア直訴」のタイトルのもと社員から社長への電子メールを推奨した。
しかし、社長と社員の直接的コミュニケーションの増加は、自立・分散・協調のネットワークの原理とはフィットするものの、日本的経営のピラミッド型組織にはなじみづらく、時として中間管理職の形骸化を招きかねない。牢固とした伝統的ピラミッド型組織では、短時間でのドラスチックな風土改革は困難であり、多くの企業は時間をかけて「インターネット前提社会」への対応を進めて行くこととなる。

■グーグル検索のインパク
企業広報の最初の取り組みはウェブサイトの開設である。当時は一般に「ホームページ」と呼ばれていた。当初は会社案内をそのまま転用したものが主流で、トップ画面に社長の顔写真とあいさつが掲載されているものも多かった。
インターネットの黎明期にあって、ユーザーはヤフーやNTTディレクトリなどの「ディレクトリ型検索エンジン」を主に使っていた。これはさまざまなサイトをその内容によって手作業で整理し、電話帳のように一覧表示する方式である。
しかし、ウェブサイトの増加により整理が追い付かなくなって来たところで登場したのが「ロボット型検索エンジン」である。これはロボットが定期的にウェブサイトを巡回し、情報のインデックスを作成する方式である。日本でもいくつかの大学の学生が手作りで開発したものや、アメリカのデジタルエキップメント社が社内向けに作っていたものを一般公開した「アルタビスタ」などがよく使われていたが、1998年にグーグル検索が誕生し、その正確さから急速に人気を集めた。
グーグルには、創業者の一人であるラリー・ページが開発した「ページ・ランク」というサイト重要度評価システムが内蔵されている。他から多数のリンクを張られているサイトや、官公庁や大学などからリンクされているサイトは重要、更新頻度の高いサイトは重要、ドメイン名から情報発信本体とみなせるサイトは重要などさまざまな要素を組み合わせて評価し、重要度順に検索結果を表示するというシステムで、これによりユーザーは検索結果の1ページ目だけで容易に目的のサイトにたどり着くことができるようになった。
企業は自社サイトのアクセスを増やすためにはこのページ・ランクを高める必要があるとして、さまざまな工夫が凝らされウェブサイトの表現が一変した。このようなアプローチをSEOサーチエンジン最適化戦略と呼ぶ。
企業のニュースリリースは、記者クラブでの配布と、関連するマスメディアを整理したメディアリストに応じた送付が中心であったが、検索エンジンにヒットすれば一般消費者へも訴求が可能なことから、自社サイトへの掲出は不可欠な手段となり、表現内容も一般消費者を意識したものへと変化していった。

ソーシャルメディアの成長
アメリカのタイム誌は毎年パーソンオブザイヤーを選出している。2006年に選ばれたのは個人ではなく情報発信するユーザーを意味する「YOU」であった。発表号の表紙は、パソコンの画面をシルバーの鏡張りとし、読者の顔がそのまま映し出される工夫が凝らされていた。ブログ、ユーチューブ、ウィキペディアなどユーザー自らが情報発信を行うサービスが増加し、一般ユーザーがマスメディアにとって代わり、メディアの主役に躍り出たのである。
1995年ごろから個人がウェブサイトを開設することは珍しくなかったが、2002年ごろからブログサービスが始まり、2005年から翌年にかけブーム状況を呈した。総務省は2006年3月末にはブログユーザーが2539万人に達したと発表している。
ミクシィ、グリーなどのSNSソーシャルネットワーキングサービス)は2004年に営業を開始し、同年フェイスブックアメリカで誕生している。
2005年のユーチューブ、2006年のツイッターのサービス開始など、多様なサービスが登場したこともあり、一般ユーザーの情報発信が容易になった。
今日の視点で振り返るとソーシャルメディアが拡大した2006年はインターネットというメディアにとってエポックとなる年だったといえよう。
消費者が自ら生成するメディアを意味する「CGM(コンシューマージェネレイテッドメディア)」や、ウェブサイトの使い方が革命的に変化したことを意味する「WEB2.0」はこれらの変化を象徴するこの時期のキーワードであった。

■ネットがもたらした広報の変化
ソーシャルメディアが広報にもたらした主要な変化として3点があげられるだろう。ひとつは、企業から消費者へのダイレクトな情報発信メディアとしてブログやツイッターなどをどう利用するかである。まず先頭を切ったのはブログの活用だった。P&Gが洗濯用洗剤アリエールのキャンペーンとして、汚れ物を量産する子どもと母親のほほえましい日常をユーザーからの投稿を受けて取り上げる「困ったさんブログ」、日産自動車が乗用車TIIDAの開発担当者の思いをきめ細かく語りかける「TIIDAブログ」、堀江貴文の「社長日記」はじめ、多くのIT企業経営者が開設した社長ブログなどの試みが2004年ごろから盛んになされるようになった。
ブログは一般ユーザーの中から影響力の強い情報発信者(インフルエンサー)を生みだした。多くの購読者を持つブログの筆者はアルファブロガーと呼ばれることもあった。
広報担当者にとっては、このインフルエンサーにどうアプローチし情報発信を促すかが二つ目の課題として浮上した。コメントやトラックバックなど通じ、注目するブロガーと対話を重ねることや資料を送付することに加え、ブロガーを集めたブロガーミーティングも行われるようになった。
2008年3月。サントリーは白州蒸留所でブロガーイベントを開催した。このときのプログラムの一つであった「すごいハイボールの作り方」が、異常なほどの関心を呼び、帰りのバスの車中はハイボールの話題で大いに盛り上がったという。参加したブロガーは自身のブログやユーチューブでこの話題を発信し、これがきっかけでハイボールに注目が集まった。サントリーはこの機をとらえて本格的なハイボールキャンペーンを展開。長く続いていたウィスキーの低落傾向に歯止めがかかった。
インターネットの中ではみんなが関心を持つ話題はソーシャルメディアを通じて急速に拡散する。ネット内でどう話題を広げるかは、広報担当者にとっての3つ目のテーマである。
2002年BMWは自社のサイトで「スター」というタイトルのショートフィルムを公開した。マドンナが主演し、当時夫であったガイ・リッチーが監督したこの作品は、街を疾走する車の中でジェットコースターのように翻弄されるマドンナを描きBMWの凄味さえ感じる走行性能を訴求している。9分を超える長さと転げまわるマドンナがシートベルトをしていないとの批判からTVでは放映できなかった作品だが、その画像の強烈さから、世界的な評判となった。制作費はかかるもののCMの放映料はかからず、ネットで話題になれば多くのアクセスを稼げるとして、インターネットメディアの力を再認識させることとなった。
2006年ソニーの大画面テレビブラビアはその色彩の美しさを強調するため、サンフランシスコの丘の上から25万個のカラーボールが弾みながら転がり落ちるショートフィルムを公開。その映像の美しさから高い評価を受け、この成功により、以降年1本のペースで数年にわたり新作を公開し、いずれも評判となった。
同年ユニリーバ社はトイレタリー製品「ダヴ」のCMを制作し、スーパーボウルのTV中継時のCMとインターネット公開の費用対効果を比較したが、広告業界誌のアドエイジによるとユーチューブのROIはテレビの3倍に昇ったという。スーパーボウルは30秒CM1本3億円前後の広告料がかかり、世界で最も高額なCMとして知られているが、ユニリーバ社やP&G社は2006年を最後に放映を取りやめている。
インターネットの中では評判が評判を呼び、話題が急速に増殖する。この特性をマーケティングに活かす手法は、「バイラルマーケティング」または「WOMマーケティング」と呼ばれる。バイラルとはウィルス(VIRUS)の形容詞型で伝染的な増殖を意味し、WOMはクチコミを意味するワードオブマウスの略である。

■メディアの地殻変動
ここで、インターネットの成長に伴うメディアの盛衰を見ておこう。
電通は毎年、日本の広告費を集計し発表している。メディアごとの広告費の推移はそのままクライアントの広告メディアの効果に対する評価を反映しているといえるだろう。
テレビ広告費が新聞のそれを上回ったのは1975年だ。オイルショック後の不況の中、沖縄海洋博が開かれ、新幹線が博多まで延伸した年だった。テレビにトップを譲ったが、新聞広告も順調に業績を伸ばし、テレビと並行して発展を続ける。
その潮目が変わったのがバブル崩壊である。テレビ広告が年ごとの波はあれ2兆円を前後する売上を続けるのに対し、新聞は1990年をピークに退潮を迎える。
とはいえ、20世紀は全体としてテレビ・新聞・雑誌・ラジオの4大マスメディアが支配する世紀だったといえるだろう。
広告費の面でネットが顕著な伸びを見せるのは2004年ごろである。この年、インターネット広告費はラジオ広告費を抜き、2006年には雑誌広告費を凌駕する。この勢いで2009年には新聞広告費もまたその軍門に下ることになる。
インターネットを介しての一般ユーザーの積極的情報発信は情報量の膨大な増加をもたらした。
総務省は1973年に前身である郵政省が調査を開始して以降「情報流通センサス調査」を実施してきた。これはマスメディアや電話、郵便、コンピュータのデータ通信、講演、ビデオパッケージなど広範にわたるメディアを対象に国内の情報通信量を調査するものだが、1996年度と2006年度を比較すると、選択可能情報量、すなわち1年間で消費者に選択可能な形で提供された情報の総量は約532倍に上っているという。ちなみに消費者が実際に受け取った消費情報量は約65倍になっている。消費者が溢れるほどの情報の洪水に取り巻かれる中、顧みられないまま打ち捨てられる情報が膨大な量にのぼっているということである。
カリフォルニア大学の調査によると、人類が誕生してから2000年までに産み出した知的資産の総和は12エクサバイト(10の18乗バイト)だが、2006年一年で161エクサバイトに達したという。まさに情報大爆発時代の到来である。言うまでもなくこの数字は年を追ってますます膨れ上がっている。
情報大爆発の中、マスメディアの地位が相対的に低下していくことは当然である。しかしマスメディアはインターネットの成長への対応に乗り遅れた。自らのメディアへの愛着やトップ層のデジタルメディアへの理解不足もあろうが、大きな要因となったのは2005年の堀江貴文ライブドアグループによるニッポン放送買収事件である。
2月8日ライブドアグループは市場外取引によりニッポン放送株を取得し、取得済み株式と併せ、株式の35%を保有する筆頭株主に躍り出た。ニッポン放送は当時フジテレビの筆頭株主であり、フジテレビはフジサンケイグループの盟主であることから、日本を代表するメディアグループが一IT企業に支配されかねない事態となった。ライブドアの挑戦を受けて立ったフジテレビは2か月以上にわたる死闘を繰り広げた末、4月18日にライブドアグループが所有するニッポン放送株式全て譲り受けることで和解した。
さらに同年10月。楽天はTBSの発行済み株式の15%以上を取得し、共同持株会社化を通じた経営統合を申し入れた。TBSは唐突ともいえるこの動きに強く反発。楽天経営統合の申し入れを取り下げ、両社で業務提携委員会を発足させることで一応の和解を見たが、業務提携の動きは具体的には進まず、対立構造を抱えたまま膠着状態が続くこととなった。
これと別に1996年にはソフトバンク孫正義が、オーストラリアのメディア王、ルパート・マードックと組んで、成功しなかったもののテレビ朝日敵対的買収を試みたこともある。
このように、IT業界からのマスメディア買収の動きが相次ぐ中、旧来のマスメディアからみてネットメディアは反発すべき対象であった。若手社員の中にインターネットに関心を持つものは徐々に増え始めていたものの、経営層の抱いたトラウマゆえか、企業としてはインターネットと距離を置いた経営が続いた。
民放テレビがこうした状況に危機感を抱いたのは2008年である。オリンピックは視聴率も広告費も多く獲得するテレビにとってのキラーコンテンツであったが、この年に開かれた北京オリンピックは、視聴率、広告費ともに期待を下回ってしまった。
直後の2008年9月リーマンショックが起こる。今後の広告費の伸びは期待できないと考えた民放各社は2011年に予定されている地上デジタル放送にかかる経費が膨大であることも勘案し、経営戦略の練り直しを迫られた。コスト削減と新たな収益源の模索がその柱である。
在京キー局はそれまで年間制作費として平均1200億円程度を支出していたが、2009年度は軒並み1000億円程度に削減された。これにより大物タレントは敬遠され、若手お笑いタレントがテレビ画面を席捲することとなる。時代劇は制作費がかかると敬遠され、スタジオのセットに雛壇を作れば成立するバラエティ番組だらけとなる。また、3時間や4時間の番組が増加し、再放送番組も珍しくなくなった。
新たな収益源として、映画製作や不動産業など他業種への進出も拡がる中、インターネットと放送の融合も具体的課題として浮上した。
こうした努力もあり、テレビ広告費の低減は小幅にとどまり何とか持ちこたえた。しかし、新聞、雑誌、ラジオはそうはいかない、広告費は右肩下がりとなり経営環境は日を追って低迷の度を加える。

東日本大震災で潮目が変わった
テレビ各局が本格的にインターネットを活用する節目となったのが2011年に起きた東日本大震災である。NHKの番組を個人がそのままインターネットに流したり、被災地のラジオ局がインターネットでサイマル放送を行うなど、さまざまな試みが見られた。
この時のツイッターの影響は大きい。それまでツイッターは、フォローしあう同士で対話することに力点を置かれていたが、被災地の行政や政府機関が関連情報をツイッターを通じて発信することより、対話よりもむしろ情報発信メディアとしての性格を色濃くした。
テレビや新聞各社もこれを契機に軒並みツイッターのアカウントを開設し、リアルタイムの情報発信に力を入れた。これ以降ツイッターの発言を番組に取り上げたり、ネット番組に本格進出するなどの動きが顕在化した。マスメディアももはやソーシャルメディアを無視することは許されなくなったのである。
東日本大震災は生活者の意識変化をもたらし、絆をキーワードに生活者は人とのつながりに価値を見出しはじめた。この心理にフィットしたのがSNSである。
それまでツイッターが担っていた友人同士の対話の機能は、たまたま2011年初めから日本で普及し始めたフェイスブックがとってかわった。
2004年のスタート時点はハーバード大学の学生であったマーク・ザッカ―バーグは、26歳にしてタイム誌により2010年のパーソンオブザイヤ―に選出された。2011年初頭に彼をモデルとした映画が公開されたたこともあり、急激に利用者数を増やし、それまで日本のSNSをリードしていたミクシィにとって代わることとなる。
また、東日本大震災を契機に開発が始まったLINEは、2012年ごろから急速に普及したスマートフォンとの相性も良く、瞬く間に高校生大学生を中心に支持を集めていった。

■広報業務の担い手
以前からのウェブサイト、ブログ、ユーチューブに加え、ツイッターフェイスブックは多くの企業が広報ツールとして活用するようになった。ソーシャルメディア利用に熱心なローソンは、2014年末で26種のソーシャルメディアで展開している。
インターネットスタート当初、広報担当部署とIT担当部署が協力し、社内の関係セクションの協力を得つつ業務を運営することが一般的であった。
ソーシャルメディアの利用が広がると、外部のサービスを利用するため、技術的な困難さは軽減することから、むしろコンテンツ創造能力やユーザーとの対話能力、危機管理能力などネットカルチャーの理解度が問われることになる。
企業は広報担当部署にネットリテラシーの高いスタッフを配し専門性を向上させることを目指すようになった。
一方、PRエージェンシーを見ても、伝統的エージェンシーの他にネット専門エージェンシーが2000年代に入り数多く生まれた。必然的に伝統的エージェンシーもネットリテラシー能力の向上が求められるようになった。また、広告会社も隣接領域であったインターネット広報に取り組み始めた。さらに、インターネットのサービスプロバイダもこの領域に参入し、また著名ブロガーも企業に対しコンサルティングを展開するなど、インターネット広報はさまざまなバックグラウンドを有する多様なプレイヤーに支えられる状況となった。こうして、広報、広告、マーケティングは徐々にその差異が薄れていった。

■広報と広告の融合
毎年6月にフランスのカンヌで、「カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバル」が開かれる。かつて「カンヌ国際広告祭」として知られていたこのイベントは、今やPRを含む13部門にわたり、前年度の作品を審査する業界最大のコンペティションとなっている。カンヌで広報キャンペーンの未来を指し示したのは、2009年にPR、サイバー、ダイレクトの3部門でグランプリに輝いた、クイーンズランド州観光局の「世界で一番すばらしい仕事」であった、グレートバリアリーフに浮かぶハミルトン島という小島で半年間暮らし、その模様をブログに投稿すれば日本円で1000万円弱の報酬が得られるという募集企画は、破格な条件に応募者が殺到し、ソーシャルメディアはもちろん、マスメディアでも広く取り上げられ、世界的な話題となった。ソーシャルメディアとマスメディア、広告と広報の複合的な展開がこれまでなかったインパクトと広がりを生み出すことを実証したのだ。
これ以降、キャンペーンにソーシャルメディアの広報をどう効率的に組み込むかがクリエーターにとって必須のテーマとなった。テレビCMのダンスをまねしたダンスをユーチューブに投稿し、もっともアクセスを集めた応募者に賞金を与える、2009年の「ロッテ Fit's ダンスコンテスト」。AKB48の人気アイドル6名の顔やプロフィールを合成した架空アイドル江口愛実を登場させた2011年の江崎グリコの「アイスの実」のプロモーションは、ソーシャルメディアでの話題の拡散を成功につなげたキャンペーンといえる。

ステルスマーケティング
インターネットによる話題の増殖は、キャンペーンの効果を高める一方、企業にとってはリスクともなりかねない。
1999年に起きた「東芝クレーマー事件」は、リスクの側面を気づかせた最初の事件だった。東芝製ビデオデッキを購入したユーザーが製品に不備があるとして修理を依頼したが、サービス担当セクションをたらいまわしにされたあげく、クレーマーとみなされ担当者との電話で暴言を浴びせられたのが発端であった。たまたまこの音声を録音していたユーザーは、音源を自身のホームページにアップロードし、東芝に対する抗議を行った。この音声が強烈な印象を与えたことで、ネットではいくつかの掲示板で話題が沸騰していた。東芝が法的措置に訴えたことを契機にマスメディアにも取り上げられ、広く一般にも知られるようになり、関係するウェブサイトにはアクセスが集中した。発火点であるユーザーのサイトは閉鎖までにアクセスが1000万に昇った。最終的には東芝の副社長がユーザーに直接謝罪し一応の決着を見たが、一個人が大企業に対しインターネットを武器に異議を申し立てることが効果的であることを証明する結果となった。
掲示板サイトの「2チャンネル」は、この事件の直前に開設したばかりでこの事件では脇役にすぎなかったが、これを契機に「インターネット告発」の中核サイトとして急成長を遂げる。
インターネット告発やそれに伴うアクセスの集中や批判的コメントの増加は「炎上」と呼ばれ、企業にとっての新たな脅威となった。
2003年にトヨタのCM表現に問題があるとして中国国内で問題化したり、ソニーウォークマンのキャンペーンの一環であるユーザーブログが「やらせ」であると批判され、開設3日で閉鎖に追い込まれるなどの事件が相次いだ。
企業は、検索により早期に事態を把握したり、問題記事を削除する外部のサービスを導入し対策を取ることが求められるようになった。とはいえ、削除によって問題が解決するわけではない。インターネットによって社員が匿名で自社を告発するケースも増加しており、企業行動そのものを律しなければ批判を免れることはできない。ガバナンスを確立し、コンプライアンスを順守することを社会はインターネットを通じて企業に求めたるのである。
2011年正月、グル―ポンで購入したおせち料理が、見本の写真と全く異なる粗末なものであった問題。2012年にはグルメサイト「食べログ」の評価について、裏で金銭で操作する業者の存在が発覚した問題。2013年には複数の芸能人がオークション詐欺サイトの広告塔として虚偽のブログ記事を掲出していた問題など、相次いて企業姿勢が問われることとなった。
このように、企業がその正体を明かさず、第三者を装って自社に有利な情報を流そうとする行為を、レーダーに捉えにくいステルス戦闘機をもじって「ステルスマーケティング」と呼ぶ。
2009年に発足したインターネット広報の業界団体WOMマーケティング協議会はガイドラインを定め、「関係性明示の原則」として企業から何らかの金銭・物品・サービス等の提供を受けた時は、その関係性を明示すべきと提唱し、これが業界の共通認識となりつつあるが、その会員は数多くの業者を網羅するには至っておらず、ステルスマーケティングは存在し続けている。今後の原則の浸透が待たれるところである。

■書き換わるメディア地図
新しいメディアの登場と成長は、旧来のメディアに影響を与えざるを得ない。テレビの登場により、ラジオは茶の間の主役の座を退き、深夜放送や運転中に聞く「ながらメディア」に活路を見出した。それまで茶の間のみんなに語りかけていたラジオは、受験生やドライバーに「きみ」「あなた」と呼び掛けるパーソナルメディアに変貌した。
テレビ以前の娯楽の王者だった映画は、今上天皇ご成婚の前年の1958年に11億人以上を動員したことをピークにテレビにその王座を奪われ、わずか5年で入場者数は半分以下になった。その後、テレビ局が製作に参加し積極的に番宣を行うなどの相乗効果もあって、動員数は回復しないが、興行収入は飛躍的に伸びている。明らかに映画のビジネスモデルは変わったのだ。
このように、新しいメディアの登場はメディア全体の地図を書き換えるのである。インターネットの登場はマスメディアに大きなインパクトを与えている。新聞を例に取れば、学生層で新聞を定期購読する層は激減し、彼らは新聞記事をヤフーやLINEを通じて無料で読んでいる。これにより読売新聞の購読者数はかつての1000万部を大きく割り込んだ。必然的に広告も集まりづらくなり、購読料、広告料の二大収入源が揃って減収に追い込まれた。
新聞の論調は、かつては言論空間でアジェンダセッティングの機能を果たしたが、いま、ネット内の識者がそれぞれの見解を披歴し、新聞は相対的に影響力を薄めた。2014年、朝日新聞従軍慰安婦問題と福島原発報道の記事取り消しにより、大きな批判にさらされた。
これまで、記者クラブなど主要情報源にアクセスできることから、新聞こそが世論をリードするとの自負が、ネット論調により反撃を受けた結果とみなすことのできるだろう。
いま新聞に必要なことは、自身のビジネスモデルの再構築であると考えられる。ワシントンタイムスを買収した、アマゾン創業者ジェフ・ベゾスは地方紙との提携を進め、自社の記事の購読者を広げるとともに、記事の形態を変え、アマゾンのサイトでも読める短い記事と、ブックレットで購読できる長文の記事とのメリハリをつけ、新たなコンテンツ流通のチャネル開発を志向しているようだ。
朝日新聞批判の波に乗り、競合紙は朝日新聞からの購読者奪取に血道をあげているかに見えるが、自社が生み出すコンテンツの価値をいかに向上させ、どう収益に結び付けるかという本質的な努力を怠ると、朝日新聞にとどまらない新聞メディアそのものの弔鐘を聴くことになりかねない。
新聞以外のメディアもまた、ひとしくこの事態に直面している。テレビ、ラジオ、雑誌だけではない、インターネットもまた例外ではありえない。
スマートフォンは2012年以来急成長を遂げ、タブレット端末とともにいまやどこでもつながり(ユビキタス)どこへも持ち運びできる(ウェアラブル)コンピュータへと進化した。デスクトップやノートパソコンの地位は今後脅かされることになろう。
地殻変動は終わっていない。広報がメディアと密接な立場にあることを考えれば、広報のあり方も今後激変するだろう。
日本における広報・PRの百年は、次の百年に向けての大変動の序章に過ぎないのである。