【後日談】

対向列車の運転士は,事故発生から12時間近くたった午後9時半ごろ,警察に出頭するが,それまでの間,地下鉄公社の幹部と会い証言の仕方についての打ち合わせを行っていた,また,地下鉄公社の監査部長は,事故直後に駅の構内ビデオの録画テープを持ち出している.地下鉄公社は事故直後から証拠の隠滅に動いたこれらの痕跡を残している.さらに,事故車両が車両基地に移された直後には,保全すべき現場である駅舎の大掃除を行い,社会的指弾の的になった.これらの証拠隠滅を指揮したとして,地下鉄公社の尹鎮泰(ユン・ジンテ)社長は解任の上起訴され,懲役3年と罰金刑の判決を受けている.
また,事故の翌日には早くも,内装材を変更せぬまま運行を再開し,根本的な問題の解決をしようとしないとして非難を浴びた.結局,運行を停止せざるを得ず,内装の変更や防炎処理等の改善を加えた上での運行再開まで約8ヶ月間を要すこととなった.
このように,大邱地下鉄公社には,隠蔽や責任逃れの体質があり,事故の原因や経過を情報公開し,その失敗の教訓を将来に生かそうとの姿勢は見られない.失敗から教訓を導き出すためには,第三者による事故の原因の究明と報告書の作成がその第一歩になると思われるが,寡聞にしてそれに向けての動きは確認できなかった.韓国社会での失敗学の普及が期待されるところである.
翻って日本の鉄道火災事故の歴史を辿れば,鉄道火災の安全性強化の多くが,事故の尊い犠牲の上に成り立っていることに気がつく.
106名の死者を数える「桜木町事故」(1951年4月24日)は,垂れ下がった送電線に列車のパンタグラフがからまりショートして火事になった事故だが,戦時規格の車両から乗客が脱出できず焼死した反省に鑑み,3段式の窓枠や連結部の内開きドアの廃止,車両への防火塗料の塗布,パンタグラフの絶縁強化などの対策をこうじた.
死者こそ出なかったものの,車両の不燃化対策の大きな契機となったのが「日比谷線神谷町駅車両火災事故」(1968年1月27日)である.
東武鉄道からの乗入れ車両がブレーキ作動状態で走行したため主抵抗器が過熱し発火,1両を全焼させ,他の1両も半焼した.事前に車掌が異状に気づき,六本木駅で乗客を降ろし回送中であったため,乗客はいなかった.
この事故にショックを受けた運輸省は,不燃化基準の見直しを行い,1969年に「電車の火災事故対策について」の通達を行う.ここで定められた耐火基準(「A−A基準」と呼ばれる)は国際的に見ても高い水準にあり,以降,日本においては車両の耐火基準のスタンダードとなった.「日比谷線神谷町駅車両火災事故」が電車の耐火基準設定の契機となったのに対し,「北陸トンネル列車火災事故」(1972年11月6日)は,食堂車や寝台車を含む列車の耐火基準作りを促した.
NHKの「プロジェクトX」でも取り上げられたこの事故は,同年3月の六甲トンネル誕生以前は日本最長であった全長13870メートルの北陸トンネルのほぼ中央で列車が炎上し,30名の死者を出すという,社会的な耳目を集めた事故である.
深夜1時過ぎ,暖房機の漏電により急行「きたぐに」の食堂車から出火.乗客から連絡を受けた車掌がトンネル内で臨時停車させ,消火作業と列車連結の切り離し作業を行うも失敗,走行不能に陥った.
睡眠中の乗客を起こし避難するが,長大なトンネルのほぼ中央部であったことと,断熱材等から発生する大量の黒煙・有毒ガスにより被害が拡大した.
この事故を契機に材質の見なおしが計られると同時に,廃トンネルを利用した燃焼実験結果を踏まえ,トンネル火災に際しては,停車させず走行脱出を図るようマニュアルの変更がなされた.
今日の日本の安全は,上記の3つをはじめとする多くの失敗から教訓を得て構築されている.
今回の大邱地下鉄火災が,日本の過去の事故と相通ずる失敗をしていることを見るにつけ,鉄道事故の失敗学が対馬海峡を越えなかったことは残念である.

一方,日本はこの事故から何を失敗の教訓として学ぶべきだろう.
ソウル大社会学科の林玄鎭(イム・ヒョンジン)教授らは,その著書『韓国社会の危険と安全』において,韓国社会では「『安全』よりも『速度』を,『中身』よりも『外見』を,『過程』よりも『結果』を,未来に『付加される費用』よりも現時点での『費用節約』を最重要視する傾向にあり,私たちは拙速に建設した巨大な建物の数々が,いつどこでどう崩れるかも知れないロシアンルーレットのような危険にさらされている」と書いている.
この指摘は日本にとっても他人事ではない.これに「『事実の直視』より『官僚的無謬神話の保持』を」を加えれば,そのままバブル以降の日本社会への批判に転用できるかもしれない.大事故は多かれ少なかれ,その社会の価値観の反映でもある.