還暦を迎えた近代的PR

昭和22年、マッカーサー総司令部(GHQ)は、各都道府県に対して以下の通達を行った。
「当軍政部ハ、県行政ノ民主的ナ運営ヲ推進スルタメニ、知事室ニP.R.Oヲ設置サレルコトヲ希望スル。」
突然の通達に驚いたのが各都道府県である。耳慣れぬPROということばに戸惑い、PRがパブリック・リレーションズを意味すると教えられても、その中身を充分理解できぬまま担当組織の設置を進め、この結果、各県に広報課や弘報課、広聴課などが誕生した。
PR戦術を駆使した大統領として知られているフランクリン・D・ルーズベルト大統領の流れを汲むGHQのニューディーラーたちが日本に持ち込んだ理想主義的政策のひとつがPR導入であった。
『PRO設置のサゼッション(示唆)』と呼ばれるこの通達が、日本の近代的広報・PRの幕を開いてから60年。今年で還暦を迎えたことになる。
戦後日本への近代的広報・PR導入の流れは行政だけではない。電通中興の祖である吉田秀雄(当時常務)は、戦争の余燼の消えぬ昭和21年2月に『当面の活動方針』6項目をまとめるが、その第2項に、「広告、宣伝の構想、企画を拡大するパブリック・リレーションズ(PR)の導入とその普及」を掲げ、いち早くPRの研究を指示している。
一方、野村證券奥村綱雄は、証券の大衆化のためにはパブリックリレーションズへの取り組みが不可欠と考え、昭和25年頃から啓蒙活動を展開した。今日のIR活動の嚆矢といえるだろう。
このようにして、スタートを切った近代的広報・PRだが、その後の発展は必ずしも順調ではなかった。30年代後半にはじまる高度経済成長は、折からのテレビの登場(28年)やマーケティングの導入(30年)により空前の広告全盛時代をもたらしたが、反面、広報・PRはなおざりにされた感がある。