草創期のPRエージェンシー

そうした中で、日本における草創期のPR会社研究は、森戸規雄氏をリーダーとする分科会が、30時間を越えるヒアリングや文献調査を重ねており、興味深い事実が浮かび上がり始めている。森戸氏の報告をもとにエッセンスを紹介したい。
これまでの調査の中で設立が早いと思われるPR会社は、福田太郎氏が福田渉外事務所として昭和24年にスタートさせた「ジャパン・ピーアール」だ。日系2世である同氏はロッキード社の代理人をつとめ、同社と児玉誉士夫とを結ぶ通訳として、晩年ロッキード事件にかかわっている。
これに続いて31年にハワイ生まれの2世の堀内義高氏が「日本国際PR研究所」(現在:ソシオアトミックPR)を設立した。
34年にはスイスの穀物検査会社のサンフランシスコ支店長を務めていた小原泰治氏が帰国し「国際ピーアール」(現在:ウェーバー・シャンドウィック・ワールドワイド・ジャパン)を、翌年その関係会社として「ユニバーサルPR」(代表者:須賀田久子氏、現在:ゴリンハリスインターナショナル)を設立している。
35年には、アメリカから帰朝したジャーナリストである佐藤啓一郎・松田妙子夫妻により「コスモ・ピーアール」が、また、岸信介首相の秘書官であった川部美智雄氏は、「ピーアール・ジャパン」を設立している。
初期のPR会社はいずれも国際業務のサポートと言う色彩を色濃く持っており、業務内容も単純なPR作業にとどまらず、幅広い渉外活動を行っていたようである。たとえば、国際PRは、財界の海外ミッションの下工作を行っていたという。
外資系PR会社も散見される。33年には大手のヒルアンドノウルトンが第一次進出を果たしている。
やがて、大量消費時代を迎え、消費者との接点の拡大を果たすため、国内での活動を中心におく次のようなPR会社が現れる。
昭和32年には河出書房の総合誌「知性」の編集長であった小石原昭氏が「知性アイデアセンター」を。昭和36年には共同通信の山内利三氏が「プレス・サービス・センター」を。同年、椎名悦三郎通産大臣秘書官を辞めた福本邦雄氏は「フジ・インターナショナル・コンサルタント」を設立している。
電通PRセンター」(現在:電通パブリックリレーションズ)の設立も昭和36年である。日経新聞社、中部日本放送などに勤務した経歴を持つ永田久光氏は、電通の吉田秀雄社長の知遇を得て、電通の名義を使用する許可を受け同社を設立した。
今回のヒアリングで、この当時永田氏は博報堂とも提携交渉を行っていたとの証言を得た。永田氏は同氏のリーダーシップを尊重する条件を提示した電通との提携を選択したという。これに対抗し、博報堂は同社の設立直後にPR部を設置する。
やがて、東京オリンピック前後に、今なお第一線で活躍する多くのPR会社が誕生することになる。「オズマピーアール」(柳勲氏)、「共同ピーアール」(大橋栄氏)、「ジャパン・カウンセラーズ」(真田照三氏)などがそれにあたる。
草創期のPR会社の創立者はいずれも個性豊かな人物で、証言を集めていくにつれ、多くの人間性豊かなエピソードに行き当たる。本稿の紙幅に限りがあるだけでなく、裏取り取材が充分でないことから、ここでは紹介できないが、今後さらに取材を重ね、PR産業史としてとりまとめて行きたいと考えている。