戦後の古川柳研究会

戦後になると、王子の製紙博物館が会議室を提供してくれ、ここで古川柳研究会の定例会が毎月開かれるようになる。
出征に際し家業を閉じた父は、戦後は出版社や化学会社の経営に携わるなど紆余曲折を重ねた末、昭和28年46歳にして東洋大学に専任ポストを得、以降、国文学者として戦後設立された近世文学会と古川柳研究会とを足場に研究活動を進めることになる。
研究会の進行は、予め定められた礎講者が句の解釈を披瀝し、参加者と討論するという形式だった。
この形式は、研究会だけでなく古川柳研究では大正の頃よりひろく採用されていたらしい。至文堂刊の「柳多留輪講初編」や岩波から出た「誹風柳多留拾遺輪講」はいずれも礎講者の解釈に輪講者が郵送でそれぞれの意見を開陳しつつ巡回させる輪講方式でまとめられている。