大学のブランド

最後に大学にとってのブランドについてお話しさせていただこうと思います。
多くの人がブランドと評価する大学は、日本にもいくつか存在します。いずれも旧帝大や伝統のある私立大学などで、長年の実績と定評とがブランドを作り上げました。これらは、いわば、「結果としてのブランド」です。しかし、最初からブランド構築を意図した、いわば「戦略としてのブランド」は、さほど一般的ではなかったと思います。
しかし、大学も、いよいよ本格的競争の時代に突入します。今後、ブランドの問題を避けては通れないはずです。事実、各大学でも今日的な課題として、注目しはじめました。
ブランド価値を高めるために、まず重要なのが、中身の充実であることは、改めてご説明の必要はないでしょう。産学連携・高大連携はもとより、知的創造拠点機能の強化、生涯教育、社会的提言、大学経営の自立化等、多方面にわたる改革が求められています。
中身の充実とともに、そうした変革の事実を社会に伝え、社会からの期待を高める努力も、ブランド構築の観点からはおろそかにするわけにはいきません。
そこでまず問いかけられるべきは、大学のブランドを作っていく上での戦略顧客は誰かということです。従来、大学の広報のメインターゲットは、受験生でありその親でした。受験料のみが可変的な収入源だったからです。
最近の大学の新聞広告を並べて眺めてみると、そうした受験生にターゲットを絞り込んだ広告だけでなく、社会一般に訴えかけようとする広告表現が増加していることに気づきます。
例えばこれは明治大学の新聞広告です。植村直巳氏の顔写真を全面にレイアウトし、「明治ですから!」というキャッチフレーズを力強い筆文字であしらっています。いかにも明治大学らしいですね。これまでの明治大学アイデンティティにぴったりだと思います。
問題は、ちょっと発想が古いのではないかということ。20世紀のマスプロダクション・マスセールス時代に、明治大学は幾多のファイトと根性に溢れた企業戦士を、産業界に送り出してきました。これからも今までのままでいいのでしょうか。過去の明治大学は的確に捉えているが、未来へ向けての指向性が乏しいというのが、この広告に対する私の評価です。
同じ明治大学ですが、こちらの広告は明治大学三省堂と共同で広告しています。東京の駿河台で、ご近所づきあいだからでしょう。こちらのほうが知的な雰囲気にあふれ、未来への可能性を感じさせます。
こちらは早稲田と同志社の共同広告で、大隈重信と新島譲にスポットを当てています。先覚者のパッションを今に受け継ぐ姿勢が訴求内容です。
京都造形芸術大学と東北芸工大の広告は斬新なデザインで目を引きます。ヘッドコピーも「今、日本を作る方策は何か。」あるいは「ITやバイオテクノロジーは果たして人類を希望ある未来へと導くのだろうか」。いかにもアート系の大学らしい明解なメッセージで、私は高く評価しています。
いずれにせよ、これらの広告からは、従来の受験生募集広告から一歩踏み出そうという気概が感じられます。
これからの大学が、社会に対しもっと多様な面での貢献果たさなければならないとすれば、受験生周辺だけでなく、社会一般の中でのプレゼンスを高める必要があることは、いわば当然です。
では、従来の枠を超え、戦略顧客を社会一般にひろげ、メッセージを発信するとき、その内容としてどんなものがありうるのか。現在私が注目しているのが、センターオブエクセレンス(COE)です。文部科学省は、世界に比肩しうる研究拠点に、集中的に予算を配分し、国際的な競争力を強化しようとしていますが、これは日本の大学にかなり大きな影響を与えるだろうと思います。
従来、歴史の古い大学ほど、学部自治の名の下に、悪平等ともいえる組織文化が蔓延していたのではないかと思います。例えば法学部をもっとアピールしようとしても、文学部や商学部などに過度に配慮し、総花的に堕してしまうケースが稀ではありません。大学は、おおむね絞り込みが下手です。
COEの指定は、従来、大学がなかなかできなかった選択と集中を、メリハリをもって実施する一つの突破口になりうるというのが、私の期待です。
同時に、COEは世界的にトップ水準の研究ですから、その内容は一般に対する訴求内容に十分なりうるでしょう。トップ水準の研究は面白いですね。小柴博士が「カミオカンデ」でニュートリノをつかまえた。何をつかまえたのか私は理解していないのですけれども、先進的で大変に面白そうな気がするわけです。
つまり、COEをその大学独自のコンテンツとして捉える視点が必要だと思っています。